2022-2-22 日記 #まードキュ 感想 大鶴肥満を照らし導く、檜原という光

2月21日0時0分、『劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ』の配信が終了しました。

(以下、ドキュメンタリー映像を『まードキュ』、『まードキュ』配信ライブを『まーごめ180キロ』と表記)

 

好きな時に見返すことが出来なくなるのは非常に残念です。が、終わりがあるからこそ、その素晴らしさを人間は記憶に留めようとするのでしょう。実際私は配信終了の直前まで『まーごめ180キロ』を見直し、スクショ祭りを開催していましたが、その行動力は終わりが近づく焦燥感が生んだものでした。いま私が感想ブログを書いているのも「配信終了」という1つの区切りがあるからです。

また2月20日は『まードキュ』と永遠のお別れをする日ではどうやらないようで、企画・演出を務められた白武ときおさんが以下のような嬉しいことを言って下さっています。叶うのを楽しみに待っています。

 

 

1月30日に『まーごめ180キロ』が開催されてから、ネットには多くの感想や考察が投稿されました。そんな盛り上がりを受けて、2月11日には主演の大鶴肥満と相方の檜原がYouTubeでオーディオコメンタリーを配信。

youtu.be

『まードキュ』は『まードキュ』内外から豊富な言及を蓄え、作品としてどんどん成熟しているように感じます。名作ですね、そりゃ2度も配信延長されます。

 

 

 

檜原は光

 

ある方のツイートで、「大鶴肥満の相方であり「光」である檜原にインタビューしてないのが良い」というような内容の感想を目にしました(正確に引用したくて「檜原 光」で検索したんですがツイートを見つけられませんでした…もしあれば教えてください)。

 追記(2020-2-26)

 ゆな on Twitter: "映像の中に一切檜原さんが出てこなくて、檜原さん側の気持ちを聞くことができないのがこの映画の中で“肥満さんにとっての光”を最大限に表していて最高だった #まードキュ"

 こちらのツイートかもしれません。教えてくださった方、ありがとうございます😊 まーごめ、と言った方がいいかもしれませんね。

 

 

確かに、大鶴肥満がママタルトとしての人生を始める大きなきっかけをくれた檜原を作品内で語らせないのは「良い」ですし、この構成には何か意味がありそうな気がします。もし意味は特になくても私が見出すので大丈夫です。今からそれについて書きますね。

 

『まードキュ』において真空ジェシカサツマカワRPG、さすらいラビー、ストレッチーズ、ひつじねいり細田、ぺこぱが大鶴肥満についてのインタビューを受けていましたが、眼鏡をかけた檜原は語ることも映されることもありませんでした。その理由は檜原がまさにであるから、だと思ったのです。

もちろん檜原は現実世界では人間として確かに存在していますが、『まードキュ』で中心に据えられた大鶴肥満という語り手によって「光」とされた以上、檜原は光なのです。

檜原は光

このことを前提にして、話を進めていきますね。

 

 

 

大鶴肥満を照らすものとしての、光

 

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「光」である檜原について語る大鶴肥満

大鶴肥満は檜原について、「ずっと俺の前で輝き続けてほしいなって 思ってます」という言葉の後、彼が時に眼差すことを拒絶するほどの眩しさを持っていることを口にしました。

光には暗闇に沈むものを照らし、そのものを輝かせる力があります。小学生時代のきゅうり、高校生時代のいじめ、父親、そして失恋など、過去から現在へ続く重苦しいエピソードを語る大鶴肥満ですが、彼は話の持つ暗い雰囲気に飲まれずに語りを進めていきます。

 

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笑顔になってくれて、嬉しい😊

それは彼に強烈なスポットライトが当たっているからであり、その「光」こそが檜原なのだと感じるのです。闇に落ち込んでいきかねない大鶴肥満が画面に示され続ける背景には、鋭い光を放つ檜原の存在があるのではないでしょうか。『まードキュ』において、目を眩ませるほど強く輝く檜原は画面内に映るべきではなかったのです。

檜原本人を映せないとなるとその光が照らす対象である大鶴肥満を映像に収めることこそが、檜原が持つ力を最大限に、より具体的に観客に伝える方法となります。大鶴肥満を映すことはすなわち彼を照らす檜原を映すことと同義なのだという理解に至った私は、大鶴肥満が恋の終わりを語る本編終盤のシーンについて考えます。

 

 

 

行き先を照らすものとしての、光

 

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ダメだった

夜の公園、暗闇の中で画面に浮かび上がるのは大鶴肥満といくつかの街灯。たとえ暗闇の中にいても、失恋して気落ちしていても、大鶴肥満をやさしく照らすのは眩しい眩しい檜原なのです(ここではマクドナルドも大鶴肥満を輝かせていましたねⓂ️)。

檜原(=「光」)について歩きながら語る大鶴肥満の後ろにちらりと映る街灯は、暗い世界を照らす光であり、暗闇を照らして進むべき道を示すものとしての光です。檜原は大鶴肥満にとっての道しるべとしても描かれていると感じます。

大鶴肥満が檜原について語るこのラストシーンが、光がより際立つ夜に撮影されたことは必然のように思えてなりません。素晴らしい構成だと思いました。夜だからこそ、視認できる光として檜原は画面に映されているのです。

「まーごめんドリーム」へと繋がっていく夜の公園のシーン。ここでママタルトは『まードキュ』においてやっと共演を果たしたのだ、と解釈しました。

 

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キルアみたいなこと言っちゃう大鶴肥満

100分を超える『まードキュ』。いよいよ2人が共演することで、『まードキュ』は粕谷明弘ではない、ほかならぬ「ママタルト大鶴肥満」が誘うドキュメンタリーとして閉じていくのです。

 

 

本編を何度も味わってから予告編を観てみると、檜原が大鶴肥満にとって光り輝く存在であることは、『まードキュ』公開前から既に示唆されていたことに気付きました。

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『まードキュ』冒頭映像

檜原が持つレフ版から反射する光が眩しくてポーズを取り、その光を受けて被写体となる大鶴肥満。やっぱり檜原は大鶴肥満にとっての「光」として描かれていたんですね。

 

 

 

 

 

 

緻密な構成と演出、編集の上に成り立つ『まードキュ』は現実をそのまま切り取ったものではなく、作り手の意図を含む映像作品であることはしっかりと覚えておきたいのです。オーディオコメンタリーでの大鶴肥満の言葉を借りるなら「結局、全てはFAKEでありますから」(1:15:06)。

白武さんの言う「再編集」が楽しみな理由はここにもあって、大鶴肥満の軌跡やまーごめの真髄をどのように組み立て直し、どんな形で私たち観客に伝えてくれるのかがとても興味深いのです。次に公開されたとき、その作品を観た私はどんな感想を抱くのか、楽しみでなりません。